故郷の親

故郷と思う根拠は、その地で生まれ育ったり、長年暮らしたりして愛着をその地に持つかどうかだ。
生まれ育った場合、そこには切っても切り離せないものがある。自分をこの世に送り出してくれた両親、その両親のまたその親。そういった脈々と続く血が流れる場所もまた故郷たる場所ではないかと思う。
住んでいたときには、それほど愛着もなかった場所。土地。それが長い間離れている間に、懐かしいもの、愛着のあるもに変わる。
街角で見る観光ポスター。故郷のキャンペーン用屋台。旅番組。歴史探索番組。何を見ても、故郷を思い出すものであれば、何故か自然と涙が出てくることもある。
故郷に帰りたいわけでもない、行きたいわけでもない。ただ、ただ懐かしい。
懐かしいけど帰りたいわけでもない。私の場合、帰る場所、それは両親のいる場だ。
父親は故郷にいる。けれど母親はもういない。
母親がまだ存命の頃は、年に何度も実家に帰っていた。そこが私の帰る場所であり、居場所だったからだ。母が亡くなった後も、何度も帰った。きっとまだそこに母がいて、母の気配を感じていたからだ。
けれど、年月が過ぎ、いつまでも同じというわけではない。父と同居している兄妹に家族ができれば、その空間はもはや私の帰るべき場所ではないからだ。
私の実家ではあるけれど、帰る場所ではない。もはや戻る場所ではなく訪れる場所なのだ。
そう悟ると、自然と帰省する回数も減る。兄妹家族に子供が産まれれば、そこが新しい家族の場所となる。一度家を後にした私には、入り込む隙はない。
父親はいる。けれどその空間はもはや私のものではない。年に数回顔を合わせる娘よりも、毎日一緒にいる人が家族だ。
だから滞在時間も年々短くなる。それでも帰る。帰って故郷の空気を吸う。故郷の空気を肺いっぱいに吸ってそして思う。帰る場所はないけれど、それでもここが私のふるさとだ。誰がいなくても、ここが私のふるさとだ。